2泊3日の家族旅行が終わった。
上の子はプールで大はしゃぎだし、下の子はテクテク歩きがかわいかった。初めて見せる顔がたくさんあって、とても新鮮だった。いつの間にか、わたしとは違う世界をしっかり歩んでいるんだなと、寂しくもあり、心強くもあった。
最終日は19時過ぎに帰宅した。5年にわたって乗り倒した愛車との最後の旅行が無事に終わった。
次、国内旅行できるのは少なくとも4年後。もしかしたら、もっと先かもしれない。
なんにせよ、その節目となる今回の旅行が最高に楽しい旅になって、良かった。
夫に子どもたちをお風呂に入れてもらったあと、わたしは久しぶりに一人で湯船に浸かった。家のお風呂に入ると「帰ってきたなぁ」と、しみじみする。
日本には「ハレとケ」という概念がある。民俗学者の柳田國男によって見出された伝統的な価値観だ。
ハレは非日常、ケは日常を指す。この概念に照らし合わせると、旅行はまさしく「ハレ」であり、家路についた現状は「ケ」に該当する。
わたしは旅行の間中、ずっと考えていた。あと何回、家族で旅行にいけるのだろう。いつまで子どもたちは付いてきてくれる? この「ハレ」の機会はあと何度ある? つまらない日常のご褒美である「ハレ」にこそ幸せがあるのならば、わたしはこの先つらい人生の中で、あと何回その喜びを感じられるだろうか。
家の浴槽はせまい。広々とした温泉とは段違い。わたしはお腹の底から息を吐いてから、ふと思った。
ああ、楽しかった。
初日からのハイライトが頭の中で投影された。なにで笑いあったか、どこが可愛かったか、どんな失敗があったか。それを乗り越えた時のわたしたちの一体感。
その時々では感じきることができなかった現象が、後になって再評価すると、いっそう「良い思い出」として胸の中できらめくのだった。
そう、その最中は、目前の出来事に反射的に対応するのみで、これが幸か不幸かを判断するのは難しい。フランス料理のフルコースに似ている、と思った。余韻に浸る間もなく、次々と運び込まれてくる料理。そのどれもが超一品で、食べている時にはもう、前のメニューのおいしさを忘れている。
はたしてわたしは、高級レストランで食事がしたかったのか。純粋に、食事のみを、評価しているのか?
きっとそうじゃない。「珍しいものを食べること」と一緒に、「その後に『いつものご飯』を食べること」まで含めて、高級レストランに期待している。
レストランに行くためにオシャレをして、普段はつけないジュエリーを身にまとって。眼前の真鯛のポワレは家庭では再現できない美味しさで、これらはすべて素晴らしい経験に違いない、のだけど、ほっとするのは、恋しくなるのは、なんてことない魚の煮つけだったりする。
そしてわたしはつぶやく、「あぁ、やっぱりフランス料理は作れないや」。でも心の内では、自分がつくったド庶民のご飯に大変に満足して、おいしく食べている。
わたしはハレの日に強い幸せを感じているのではないのだとわかった。そのあとにずっと続くケに感謝していて、それこそがまさにわたしにとっての幸せだった。
みんなの笑顔がずっと続くと【確証できる】しあわせ。胸が震える。大好きな人たちが、これからもずっと健康でわたしの周りにいてくれることは、なんてありがたいことなんだろうか。
わたしたちは愚かだから、日常にしあわせがあることをすぐに忘れてしまう。自分は持っていないこと、非日常を経験している人々をあっさりと羨ましがる。
それを引き戻してくれるのが「ハレ」なんだ。たまのハレがあるからこそ、ケのありがたみが引き立つ。ケの中にわたしの幸せがあることを思い出させてくれる。その度わたしは確信する、「いまの日常を、心底愛している」。
わたしは自分が選んだ料理道具を手に取って、今日も名前のない家庭料理をつくる。