とにかく頭の回転の速い人でした
高校3年間、ずっと同じクラスだった友人がいました。 友人は母子家庭で、妹がひとり。友人の母は、確かトラック運転手だったと記憶しています。彼女は弁護士を目指していました。
その頃の私は、なんとも嫌な人物で、基本的に周囲を見下していました。というのも、中学の頃、音楽大学に進学しようと夢見て、勉強が大変にならないよう自分の実力で無理なく進学できる高校を選んだからです。
井の中の蛙、大海を知らず。私は逃げていました。プライドばかりが高くて、常に「負けない方」を選んでいたのです。
そんな私から見て、友人は頭の回転が速い、この子には負けるかもしれない、と、素直に思える人物の一人でした。勉強の出来というより、着眼点、物事の進め方、議論の本質を見抜く力に圧倒されたのです。常に俯瞰してその場を見る子でした。
「なんのために予備校行ってるの?」
高校3年の春。私はそれまでずっと音大を受験するつもりでいましたが、実力もコネもカネもまったくない事実をようやっと受け入れて、焦点を一般の大学に切り替えたところでした。
予備校入塾時のテスト結果を今でも覚えています。偏差値は、英語42、日本史34。
この結果を見たとき、私は血の気が引きました。指先からすっと熱が奪われて、生きた心地がしなかった。私が他人を馬鹿にしていた間に、同級生はしっかり勉強をしていたのでした。
とにかく基礎固めをしないとマズいと、基礎クラスを受講しました。人より劣っている自覚があったので、ギアを入れて勉強しました。すると、夏を過ぎたあたりで力が付き、予備校の授業が退屈になっていったのです。
「行ってももう学ぶことないんだよなー、でも、もったいないから行かなきゃだよね。」
セミの鳴き声がじわじわと押し寄せる、真夏の教室。当時の都立高のクーラーは効きが悪く、窓を開けて文化祭の準備をしていました。私はお昼ご飯を食べながら、友人にそうごちたのです。
友人は、コンビニおにぎりのビニールを剝がしながら、
「わたしなら、もう予備校いかないよ。」
そう言い放ったのです。予備校に、行かない。それは「サボリ」を意味していました。
私は、根がまじめです。勉強で大学に行くことを決めた高3の春から、授業をサボったことは一度もありませんでした。サボるのは、悪いこと。なぜ悪いか?親がお金を出してくれているからです。
「行かないったって……予備校代、もったいなくない?」
それに対して、友人は、迷いのない声で言います。
「その時間で問題集でもやった方がいいよ。その方が力もつくし。まみはなんのために予備校行ってるの?」
高3でこれを言えるのはすごいなと、今でも思います。なんのために予備校に行ってるのか、なんのために親がお金を出してくれているのか。すべては「大学合格」この四文字のためです。
私は、頼まれてもいない義理人情を勝手に作り上げて、「予備校とは必ず通わなければならぬものだ」と考えていたのでした。
すごいな、大人だな。悔しいけど、私の考えのもう一段階深いところが見えているな。私は、この子には勝てないのかもしれない。そう思いました。でも、私が放った言葉は、「だよねー」。
当時の私には、これが精一杯でした。そんなふうに言えるってすごい!と、素直な賞賛を手放しに与えられるほどには、私はまだ、人間ができていなかったのです。
私は授業に出なくなりました。友人の言うように、自分の勉強をすることにしたのです。
そうして、高3の3月。ふたを開けてみると、私たちは同じ大学の、同じ学部に進学することになったのでした。
大学生活に浮かれて、漂って。
友人とは、一緒に入学式に参加しようと約束しました。私は母と共に、電車を乗り継ぎ、日本武道館へ。会場につくと、友人が先に到着していました。彼女は、一人のようでした。ふとあたりを見渡すと、誰しもみなお母さんらしき人物を連れだって歩いています。
(お母さん、お仕事で忙しいのかな。)
私はそんなことを思いながら、ついぞ質問できず、友人と共に座席についたのです。
入学式を終えて、授業が始まるまでは、キャンパスで新歓活動が行われます。私は友人と2人でキャンパスを回りました。私服の彼女は、大人っぽく見えました。ありとあらゆるチラシが私たちの胸元に放り込まれます。
「まみはサークル、どうする?」
「わたし、オーケストラサークルに入ってみようと思って。」
「そうなんだ。わたしはまったりしたいから、ゆる~いサークルに入るつもりだよ。」
そんな言葉を交わして、二人でシラバスを読みました。憲法を学びたいから、たくさん授業受ける予定。友人はぽつりとこぼしました。私は本当に恥ずかしいのだけど、法学部に進学したものの、六法の体系もアヤしかったので、拳法?ああ、憲法ね……なんて、冗談を言って、笑って。
浮足立っている間に、4月は逃げるように過ぎていきました。クラスが分かれた友人とは、一緒に授業を受けることはありません。昼は授業を受けて、夜は興味のあるサークルに顔を出して。LINEがなかった時代、メールのやりとりはそんなに頻繁に行うものではありませんでした。大学に漂う自由な雰囲気に酔っていた私は、友人に連絡することを、すっかり忘れていたのです。
18歳の必死の説得は、届かない
授業に慣れ、サークルも決まり、あとはバイトを探せば完璧…と、自宅のベッドに寝ころびながらタウンワークを読んでいた4月の下旬ごろ、携帯が鳴りました。友人から、それも電話です。はい、もしもし。手はページをめくりながら、何の気なしに出ました。窓から西日が漏れて、まぶしい。
「ごめんね、いま大丈夫?」
声が震えています。泣いているのかもしれない。心臓がきゅんと跳ねました。私はすぐに座りなおして、どうしたの?と聞くと、消え入りそうな声で、退学することにした、と言うのです。
私は驚いて、素っ頓狂な声をあげたと思います。なんで、どうして。すぐさま訳を聞きましたが、あまり理解できませんでした。入学金は父方が準備してくれたこと。お母さんに新しい彼氏ができたこと。新しい彼氏と一緒に住むこと。妹は反対していないこと。そんなことを言っていたように思えます。とにかく今後のお金の工面ができなくなったので、辞めるのだと。
私は、18歳なりに必死に説得しました。入学金は払ってあるのだから、今からバイトして貯めれば下期の学費は準備できる、奨学金を借りればいい、など。4月の夕日はあっさりと落ちて、室内に暗闇が拡がります。私は、その当時持っていた言葉を尽くして友人を引っ張り出そうとしました。でも、届かなかった。彼女はさんざん泣いたあと、諦めたように言います。
「まみはいいなぁ、家族仲が良くって。うちもそうだったらいいのに。私は、お母さんと妹と3人で仲良く暮らしたいだけだよ。新しい彼氏とかいらない。どうしてこんな願いが叶わないの?」
声が、出なかった。なんにもできないと思った。大学のこと、お金のこと、彼女の家族のこと、私がしてあげられることは何一つないと悟ったのです。その瞬間、私たちは二つに分断されました。持つ者と、持たざる者。もとは、同じだったのに。なにもかも同じだった、いや、彼女の方が、才能だって志だって、上だった。
その後、友人は大学を辞めました。ひっそりと。
幸せに暮らしてるなら、それで良かったんだよ
それから数年間は連絡が取れない日々が続きました。私は大学を卒業し就職、仕事を覚えて貯金もできるようになってきた25歳ごろ、急に「元気?」と連絡がきました。
すっごく、嬉しかった。私の方から連絡はできない気がしていたから。友人は、クラスのみんなと会いたいと言って、私たちは他の子も交えて、4人でごはんを食べにいきました。
久々の友人は、柔らかい雰囲気に包まれていました。聞くと、あのあと派遣社員になったこと、母親は結局彼氏と別れ、今はまた家族3人で暮らしているとのことでした。
「それでね……」
友人は本旨を切り出しました。結婚するのだと言います。25歳、クラスメイトの中では早い結婚でした。そして、お腹の中にはもう赤ちゃんがいると。母になるのだと。
良かったなぁ、幸せになるんだなぁ。心から祝福しました。私はもう、大人になったのです。「だよねー」としか言えなかった、17歳の頃とは違う。経験を積んで自信もついた、だから他人の人生をありのまま受け入れられるようになったし、自分と比較することもしなくなった。25歳で結婚、いいじゃないですか。若い花嫁なんて、素敵。いいなぁ、友人はもう結婚かぁ。そう思ったのです。
だけど彼女は5年後に離婚して、その3ヶ月後に再婚しました。また、できちゃった結婚でした。
最後にその話を聞いて、もうすぐ6年が経ちます。友人との連絡は、とれません。SNSは、更新されないどころか、アカウントごと、ない。「離婚したかな」冷めた目で私が言う。
私はたまに、彼女が大学に通い続けていたら、と考えてしまうのです。少なくとも、世界の見方は増えました。友人は、世の中を知らなすぎた。この世は、18歳の少女が賢く生きていくには難しすぎるのです。誰かの助けが必要だった。手を差し伸べてくれる良い大人がいたらいいのに。
どんな過去があったって、いま幸せに暮らしているなら、それで良かったんだよ。それを望んでたんだよ。私も私で、ひどいなと、いま書きながら驚いています。勝手に、期待してた。何もできなかった自分をなかったことにしたくて、「幸せな今を生きる友人」という幻影に「やっぱりあの時の経験は無駄じゃなかったね」と言いたがっているだけ。
この経験は、いまも私の胸の中で燻っています。社会や福祉への関心の源は、この経験から。いつか自分の手で今を生きる子供や、かつての子供たちを救いたいとも考えています。私の友人に差し伸べられなかった手に、自分がなれるように。