娘が保育園で『可愛くてごめん』という歌を覚えて帰ってきた。歌詞をよく聞くと、他者を煽る内容で驚いた。今回は、なぜこの曲が保育園児に届いたのか、その背景と、今後わたしたち親が子どもに取れる対応について考えてみた。
流行歌を歌う保育園児
きっかけは、娘のこの一言だった。
ママ、「ちゅ、かわいくてごめん」って歌を覚えたい。
ナニソレ?と尋ねると、保育園ではこの歌とYOASOBIの『アイドル』が流行っており、毎日友人と歌っているのだと力説された。
流行の発端となった友人はみな、小学生のきょうだいを持つ子たちだった。おそらく、年上のきょうだいから仕入れたのだろう。
「一曲通して聞きたい」というので、YouTubeで検索して流してみたところ、歌詞が衝撃的で、わたしは思わず、反射的に、「ママは、この歌は、歌わないで欲しい」と言ってしまった。
『可愛くてごめん』とは、どんな曲なのか
歌詞を見る前に、この楽曲の説明をさせていただきたい。
本楽曲は、HoneyWorksというVOCALOID(ボカロ)オリジナル曲を手がけるクリエイターチームによって制作された。
流行の火種は、TikTokとのこと。実際調べてみると、TikTokのプレイリスト「TikTok Hot Songs Japan」で2022年11月4日~2023年2月2日の間、1位をキープしていたらしい。
さて、では実際に、歌詞をご覧いただきたい。
Chu! 可愛くてごめん
引用:HoneyWorks(2022)『可愛くてごめん』
生まれてきちゃってごめん
Chu! あざとくてごめん
気になっちゃうよね?ごめん
Chu! 可愛くてごめん
自分磨きしてごめん
Chu! ぶりっ子でごめん
虜にしちゃってごめん
ムカついちゃうでしょ?ざまあw
なぜこの歌がうちの娘に届いたのか
すぐに、「なぜこんなに他人を煽る必要があるのか」という問いが疾走した。
自己肯定感を高めるために、あるいは、自己の存在意義を確保するために他者を不快にさせる必要があるのだろうか。
特に私の心をざわつかせたのは<ムカついちゃうでしょ?ざまあw>という一文。
明らかにここだけ毛色が違う。今までの、かわいく丁寧な言葉遣いとは対照的な「ざまあw」というネットスラングの対比にくらくらする。自分の存在を認定するために他者を侮蔑している。それは歪んだ自己肯定感のように見えた。
ママ、なんで「生まれてきてごめん」なんだろうね? 生まれてきたら「ありがと~」なんだよ!
なぜこの歌詞が若者世代に受け入れられ、わが子のもとまで届いたのか。それは、怒りにも似ていた。
わたしは、健全な自己効用感と自己肯定感を持ち、他者の多様な意見を聞ける子に育てようと今まで細心の注意を払ってきたのだ。どうして、この歌が、うちの子に。
わたしの興味の行先
前提として、わたしが怒りを感じてしまった点は「この歌が作られたこと」ではなく「この歌が保育園児に届いてしまったこと」にある。
もちろん表現の自由があり、それを好む人が存在する、そのこと自体にはまったく異論はなく、当然、「こんな歌をうちの子に聞かせるなんて! なんて曲つくってくれるの!」と関係者に怒鳴り込んでしまうモンスターペアレンツにはなるまいという自制の念もある。
わたしが知りたいのは、「なぜこの歌が保育園児に届いたのか」その一点だ。わたしは、以下のように仮定した。
- 若い世代に共感される価値観のある楽曲なのでは
- それゆえにシェア文化の若者の間で爆発的なブームになった
- 中学・高校生から幼いきょうだいへバトンタッチされた
今回は一つ目の課題について、検討してみたい。
この歌は若い世代を代表しているのか?
わたしは、所属している社会人オーケストラの飲み会で、大学生と20代社会人の2人に、この歌を知っているかと問うた。
2人は「そんな歌があるような…?」と答えた。
これは、わたしが当初抱いた感覚とは違った。わたしが考える「若い世代で大流行の歌」とは、(好みはあれど)誰もが一度は聴いたことがある歌のことを指す。
それは、ミドサー世代のわたしにとっては嵐だったり、ポルノグラフィティだったり、古くはSPEEDだったりした。
「もしかしたら、この歌は、<特定の>若い世代に受け入れられているのかもしれない」と考えを次に進めた。
この曲は「キャラクターソング」
調べると、この歌はクリエイター集団:HoneyWorksが手掛けた楽曲シリーズ(※楽曲間で登場人物を共有し、物語化すること)およびTVアニメに登場する<ちゅーたん>というキャラクターのための歌だとわかった。
つまり、現実のよくいる若者のことを歌っているのではなく、あくまで「推しているアイドルのためにメイド喫茶で働き、『推しごと』にまい進する」架空の女子高生を歌ったものなのだ。
この<ちゅーたん>が若い世代のスタンダードかというと、そうではないと感じる。
ということは、この歌詞だけを見て「今どきの若い子は」とひとくくりにするのは、主語が大きすぎることになる。
「TikTokで流行っている」とは
TikTokとは、短尺動画のSNSだ。10代・20代といった若者の利用率が高い。
この記事を書くにあたり調べてわかったことだが、ほとんどの動画にBGMがついていることも特徴のひとつと言える。
BGMをつける際、人気急上昇の曲がレコメンドされたり、見ている動画で使われている曲を自分の投稿にも利用するという使い方ができるため、曲名は知らなくとも「流行っている曲」を認知することができる。
ここが、TikTokユーザーとの第一のタッチポイントだ。
楽曲が流行った理由
「あざとさ」が好意的に取られたから
なぜ、人気楽曲にまで昇り詰めたか。
本作のメロディーはキャッチーで、使われている音色もかわいい。さらに、歌詞のあちこちに感じられる「あざとさ」も、ユーザーの心をつかんだものと思われる。
<可愛くて><あざとくて>などの自身の魅力に<ごめん>が掛かっている歌詞からは、ヒロインが謝罪の心を1mmも抱いていないのが、明瞭だ。そこから想像できるのは、自分自身を好きな主人公像。口ではごめんと言いつつも、実は鼻で笑っているようなあざとさが感じられる。2020年ティーンが選ぶトレンドランキングで「あざとい」と「かわいい」を掛け合わせた造語「あざとかわいい」が3位にランクインしていたことからもわかるように、あざとさを表現した歌詞が、ティーン中心のTikTokユーザーに響いたのではないだろうか。
引用:なぜ HoneyWorks「可愛くてごめん」はこれほどまでにバズっているのか、楽曲の独自性から浮かび上がってくる “あざとさ”
ここからわかるように、「あざとい」の持つ言葉のイメージが変わったように思う。
ミドサー世代のわたしが考える「あざとい」は、非常に悪いイメージだから、「あざとくて何が悪いの」というテレビ番組がはじまったときには、とても驚いた。
かつて嫌われる女性の代名詞だった「かわいこぶりっこ」や「あざとい」は、今や「努力」と評されるようになったのだ。
効果的な歌詞の切り取られ方をしたから
しかし、この曲が流行ったからくりはもう一つある。それは、「うまく歌詞が切り取られたこと」だ。
多くのTikTokの動画は15秒程度。この歌も、サビの最後まで流れている訳ではない。とりわけ強烈で、「煽られている」と感じる<ムカついちゃうよね?ざまあw>の部分は切り取られている。
つまり、この歌が他者を煽っている歌とは知らずに聴いているユーザーがいるかもしれない。
これは仮説だが、「可愛くてごめん」を全曲通して聴いたことがないユーザーも多いのではないか。それなのに「若者に大人気」とメディアが発信したことで、楽曲が本来アニメを見ない層にも広く波及し、果ては保育園児までこの曲を知ることとなったのではないか。
海のものとも山のものともつかぬ情報が保育園児に届く時代。わたしたち親世代は、彼らをどう理解し、どう道標を示せるか、次の章で考えて行きたい。
- 『可愛くてごめん』はアニメのキャラクターソングである
- この楽曲はTikTokで若者に流行した
- 聴いている本人さえ歌詞全文は知らない可能性がある
わたしたちとは違う若者世代の価値観
この楽曲は、歌詞の中でもっともダークな部分である<ムカついちゃうよね?ざまあw>が切り取られている。
しかし、それ以前の、
Chu! 可愛くてごめん
引用:HoneyWorks(2022)『可愛くてごめん』
生まれてきちゃってごめん
Chu! あざとくてごめん
気になっちゃうよね?ごめん
という歌詞でさえ受け入れられ、好意的に取られているという事実は見逃しがたい。
この部分を聴いても、TikTokユーザーは違和感なく、むしろこれが「良い」「かわいい」と思ってBGMに採用しているのだ。
次章では、その心理に迫りたい。
『うっせぇわ』に見る閉塞感
わたしがこの歌を聞いて思い出したのは、Adoの『うっせぇわ』だった。
2020年10月23日にYouTubeに投稿されたこの曲は、当時現役高校生だったAdoの代表曲となった。
うっせぇうっせぇうっせぇわ
あなたが思うより健康です
一切合切凡庸な
あなたじゃ分からないかもね
引用:Ado(2020)『うっせぇわ』
大人の事を「うっせぇ」と思った経験は、わたしにもある。嫌いな大人に対して「頭の出来が違うので問題はナシ(引用:Ado(2020)『うっせぇわ』)」と思った経験も、ある。
問題は、この曲を「大人への諦め」ととるのか、「分かち合えない(同年代も含む)他者への威嚇」ととるのかで、見方が変わるという点である。
もし後者である場合、この二つの楽曲は、共通の価値観を持つ。それは、「自己の存在価値を確かめるために他者を貶める」点だ。
では、何故そんな必要があるのだろうか。もしかしたら若者にとって、そうすることでしか自分を認められないのかもしれない。
そこでわたしは、2つの仮説を抱いた。
常に高レベルな誰かと比較してしまうから
デジタルネイティブである彼らは、自分が一番でないことを、幼いころからよく知っている。
いつでも世界に接続できるということは、いつでも自分よりすごい人がいることがわかるということだ。
例えばわたしは小学生の頃、勉強もそこそこできたし、ピアノの腕も一番だった。
自信満々で入った公立中学校での初めての中間テストの順位は(悪い意味で)衝撃だったし、中一でショパンの幻想即興曲を弾いた同級生には度肝を抜かれた。その子は勉強もよくできた。
わたしの自信はあっけなく崩れ去り、その後は「自分は凡人だ」と自認しつつ、それなりに楽しく生きている。
わたしは、わたしの周りにいる子が、わたしより「少しだけ出来る子」だったから、まだ救われた。「私ももう少しだけ頑張ったら辿り着けるはず」という希望を抱いていけた。
でも今は、比較可能な対象のレベルがべらぼうに高い。そんな、高レベルな存在に簡単に接続できてしまう。
わたしの同級生だって、すでに世界デビューしているような年少の天才ピアニストにはかなわなかったはずだ。
当時はその存在にアクセスすることもままならず、「雲の上の存在」と割り切ることができたが、いまはちがう。
目の前のスマホの中に、そんな存在があるのだ。しかも、その生活や心情まで垣間見ることができる。自分と同じように暮らしているのがわかってしまう。
「わたしには、いいところがなにもない」と思ってしまうには十分ではないだろうか。
なんでもデータ化され、努力を強いられるから
さらに、定量的に可視化することが良いことだと資本主義に毒された大人たちが、子どもの世界にそれを持ち込んで、なんでも数値化してしまったことも良くなかったのかもしれない。
子どもはいつだって、比べられている。それも、言い訳できぬ形で。
やさしさとか、勇気とか、そういう定性的な良さは、偏差値や100m走のタイムに比べると軽んじられる傾向にある。
しかも「きみの弱点はここだから、こういう練習をすればいいよ!」なんて個別具体的なアドバイスまでもらえる時代だから、やって成果が出ればいいけど、わたしみたいにどうしても運動神経が悪くて「腹筋5回もできません…!」なんて子は、それだけでプレッシャーになる。
どんなにがんばってもできないことは、あるのだ。それを、「ここまでお膳立てされてるのにできないのは、努力不足だ」と判定されたら、大変に辛い。
私は悪くない、という他責思考。あるいは、私を守るための他者への威嚇には、こんな背景があるのかもしれない。
- 若者世代には、「自己の存在価値を確かめるために他者を貶める」ことに対する絶対的抵抗はないのでは
- それは、常時接続の世界で、常に自分を他者と比較してしまうからでは
- それは、なんでも数値化され、努力を強いられるでは
「昔は良かった」なんて言うつもりは毛頭ない
先述の『うっせぇわ』が流行した2020年、すでに親になっていたわたしは、いまと同じように、「娘が『うっせぇわ』なんて言ったら、いやだなぁ」と思ったのだ。それこそが、まさに、若者世代から見ると「うっせぇわ」なのだ。
わたしも年を取る。昔、mixiからFacebookに鞍替えした2010年代初頭、わたしたちは純粋に仲間内での交流を楽しんでいた。
その後、会社の上司にあたる世代(当時40~50代)もFacebookに参入し、同じ会社だとわかると見境なしに友達申請を送ってきた。
これは、当時の主流なユーザーである若者の使い方と違っていた。わたしたちは、「知人」レベルには友達申請しない。仲良くなりたい、交流したいと思った人の投稿だけが見たいのだ。
「会社とは違うプライベートでの楽しみを共有したかったのに、萎える、おじさんおばさんはSNSやるな」という気持ちが当時の20代の共通認識だった。
それゆえに、10代20代はFacebookから逃げ、instagramに流れた。そして「若者で流行っているなら、我先に!」と、また年かさの者がそこに参入する。情報通ですと言わんばかりの面構えで、先住民の地を荒らすのだ。
若者には若者の価値観があり、それを尊重しないといけない。
わたしは年をとって、昔のことを忘れてしまいがちだけど、その都度、このFacebookでの出来事を思い出す。
年長者の立場でズカズカと踏み込んではいけないのだ。まずは若者世代を理解しなくては。
わたしにも身に覚えがある
そもそも、わたしが小学生の頃はSPEEDが大流行していた。
その頃、わたしは「痛い事とか恐がらないで / もっと奥まで行こうよいっしょに…(SPEED(1996)『BODY & SOUL』)」だとか「Luv Vibration / ハート愛撫して / 熱いときめきを伝えたいよ(SPEED(1997)『Luv Vibration』)」だとか、意味も分からずに歌っていたのである。
そしてわたしの親の世代は、齢15歳の山口百恵の「あなたに女の子の一番 / 大切なものをあげるわ(山口百恵(1974)『ひと夏の経験』)」などと口ずさんでいたはずなのだ。
はっきり言って、子どもが歌う曲についてそこまでめくじら立てる必要がないことはわかっている。わたしたちは、子ども時代において、その歌詞の意味もわからず、なんとなく流行っているから、歌っているだけだったのだ。
本当にそうなりたいと思ったことも、わたしの主張はこれで間違いないと思ったことも、ない。
だけど、親になったわたしは、気にしてしまう、心配してしまう。その前提に立ったうえで、それでも親として子どもに何かしたいと考えてしまったときに、なにができるかを考えてみたい。
親がすべきことは「禁止」ではない
今考えてみると、「ママは、この歌は、歌わないで欲しい」なんて言うのは、悪手だったのだ。
まず、子どもは歌詞の意味を理解していないし、そんなつもりはないのに、友人と楽しくやっていたのに急に大人が入り込んできてしらける。そして年を重ねたら、きっと、親に隠れて行動しだす。
「この歌を歌うのは禁止!」「テレビを見るのは禁止!」そうはいっても、子どもはいつか必ず、どこかから、親がアクセスしてほしくない情報を手に入れる。
ドラッグや闇バイトまで、子どもが触れられる情報は果てしない。そのすべてを掌握することは、わたしたちにはできない。では、わたしたちは、どうすべきか。
自分で判断できる大人になれ
いま私たちにできることは、情報を受け取り、咀嚼する力を伸ばすことのように思う。
自らの倫理に照らし合わせて、この情報は、許容できるか。社会はこれを、許すかどうか。
「役に立つか」「儲かるか」といった実利に走るのではなく、「あなたの美意識は、これをどう見るか」を基準に考える訓練が必要だ。
自分の判断を客観的に見るためには社会における常識や教養が必要だし、自分というブランドを傷つけないためには高い倫理観や品格が必要だ。
幸いなことに日本には9年の義務教育があり、しっかり勉強すれば両方身に着く。
わたしたちにできることは、学校で行われる活動をサポートするのと同時に、その「学校」という枠組みがおかしくないかも併せてチェックできる目を養わせることだ。
具体的な例として、わたしは、学校外の活動(課外活動や読書でもよいと思う)の時間を取っていきたい。
そこで、自分以外の他者の考え方を学んでもらう。親子間でも、友人でもいい。多くのコミュニティを持ち、Aというコミュニティではこうだけど、Bというコミュニティではこうなんだ、という経験をたくさんしてもらいたい(これは、過去の偉人からも学べるという意味では、読書もここでいう「コミュニティ」になるのでは、と考える)。
そして、これらは子どもの価値観形成の養分になる。わたしはAには馴染まないけど、Bの考え方には共感できるという経験が増えていく。そうすれば、Aだけが絶対でないことがわかる。これは、比較文化がはびこる現代において心のよりどころになる。
AがダメならBに行く。そういった、居場所をたくさん確保しておきたい。
流行歌の話からずいぶん遠くまできたね…!
最後に
着想全開のまとまりのない記事になってしまった。
最後に、わたしはこの曲を作ったHoneyWorksさまに敬意を表したい。
HoneyWorksは2010年から活動を開始されているが、いまも第一線で活躍なさっているのは、その時代に合った楽曲を提供できているからだ。
わたしたちは、年を重ねる。そのたび、当時の気持ちがわからなくなる。でも、HoneyWorksはそれができるのだ。経験していないことを、経験しているユーザーに共感できるようにかくことは一般人にはできない。素晴らしい想像力だと思う。
考えるきっかけをくださってありがとうございました。
また、7,500文字にも及ぶ長文をここまで読んでくださった読者のみなさまにも、お礼を申し上げたい。どうもありがとうございました。
ご意見・ご感想がございましたら、ぜひにお問い合わせ欄や、X・instagramのリプライ、DMで教えていただけると嬉しいです、励みになります。
これからも、文化と言う観点で社会をそっと見続けていきたいと思います。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。