こんにちは。桜も満開となった東京では、ようやく雨があがりお花見日和となりました。みなさまいかがお過ごしでしょうか。
さて、本日のエッセイは、WBC決勝の舞台で放った大谷選手のスピーチから。
「憧れ」の言葉に秘められたもの
憧れるのをやめましょう。WBC決勝の前に円陣を組んだメンバーへ、大谷選手はそう言い放ちました。
憧れるのをやめましょう。(中略)野球をやっていたら誰しも聞いたことがあるような選手たちがいると思う。憧れてしまっては超えられないので。
これは、最高にシビれる演説でした。こんな世界の舞台で輝く人たちにも「憧れ」があって、それに畏怖するとは。彼らが非常に身近に感ぜられた瞬間でした。
私も、憧れるのを辞めたらもっと何かできるかもしれない。なんとなくモヤモヤと霞がかった「すごい人」の仲間入りができるのかもしれない。そんな希望さえ湧いてくる、素晴らしいスピーチでした。
大谷選手のスピーチをもう一度全文読もう。そう思って、「憧れるのをやめましょう」と検索しました。すると、南海キャンディーズの山里さんの記事がヒットしたのです。
「それで萎縮してパフォーマンスができないっていう理由にしてるだけだったりとか、無茶苦茶いい逃げ文句なんだよね。“憧れの人の前だからこれができませんでした”っていうのって」
「なんか俺それですごい逃げてたなって思って。大好きな人と一緒に仕事するときに、“憧れすぎてる人がいるから今日ヘラヘラして終わっちゃったな”みたいな。」
「意外とこの逃げ方って自分の人生で数多くやってきてるなって。憧れ逃げってのをやってたな自分と思って。で、その上で(侍ジャパンが)世界一になってる姿を見たときに、(自分を)変えようと思ったよね」
山里亮太 大谷翔平の「憧れるのを、やめましょう」で気付いた「憧れ逃げってのをやってたなと思って」(外部サイト)
「憧れ逃げ」。胸に突き刺さるような言葉でした。「憧れ」というまぶしい響きに全幅の信頼を寄せていた私は、まさかそこにネガティブが潜んでいるとは思いもしなかったのです。
憧れ、という言葉の中には「私にはどうせ無理だから」が入っているのかもしれない。そう考え出したら、深く深く潜る一方でした。「状況が違うし」「能力ないし」「もう30代だし」「子どももいるし」と、言い訳ばかりが占拠しているのかもしれない。
何者になりたいかもわからない自分
WBCの選手と山里さんに共通するのは、彼らはそれぞれの業界で評価されているということ。そのために、練習や努力を一身に積み重ねてきたのです。何者にもなれずに終わるリスクを背負って、それでも一番になるための努力をした、そう自負できるほどに。
その結果、憧れていた人に会う機会を得た、そこまできた人たちなのです。
言い換えると、彼らは、憧れの対象がはっきりしていて、そうなるための一流の努力をして、ようやっと対峙できた人たち。
「憧れる、というのもおこがましい」と思いました。だって私は、その手前で止まっている。何者になりたいかもわからない、努力の仕方も方向性もわからないのです。
あの人いいなぁ、仕事で評価されて。いいなぁ、優雅で。いいなぁ、なんでも買えて。いいなぁ、きれいで。そんな漫然とした「いいなぁ」の集合体を「憧れ」と呼んで、「憧れるのを辞めたら『ああ』なれるかも」とソワソワしているだけの自分。
『ああ』なるって、具体的にはどうなりたいんだろう?私はなにがしたいんだろう。でも、何者かにはなりたい、なってみたい。そんな渇望ばかりが胸を急き立てるのです。
凡人だから、同じ土俵に立つ努力をする
一度「何者かにはなりたい、なってみたい」と思ってしまったら、もう元には戻れないのでした。
何もせずに毎日を生きていたら、その「憧れ」はどんどん遠くなって、本当に「憧れ」と呼べないくらいに、「夢」という名前に、……いや、「こうなりたかった」という、過去への諦めになってしまう。
どうしたらいいんだろう。WBCの選手と山ちゃんが頭の中をぐるぐる交差しています。あ、そうか。その二つには共通項がありました。「憧れている人に会っている」ということです。
今の私には、「憧れ」に会うことはもちろんありません。日常生活において接点が全くないのです。では、どうしたら会えるようになるのでしょうか。
- 同じ土俵に立つ
- 違う土俵を極めてセッションする
ぱっと浮かんだのは、この二点。後者は努力の方向性すらわからず難易度が高いですが、前者は比較的簡単です。まったく同じキャリアを歩めばいいのです。
とにかく、マネする。その人がどんなバックグラウンドで、どんな風に努力してきたかを、徹底的に調べてマネすればいい。実れば御の字、実らなくたって糧にはなります。
私は何者になりたいのか、まだわからないけど、憧れている人と同じ努力をすることくらいは、できそうな気がします。
というか、その「憧れ」が天才だとしたら、天才でも頑張って道を切り開いてきたのだから、凡人の私はその頑張りを上回るくらい努力しないと同じ土俵にすら立てないことも、もういい大人だから、わかっています。
そう考えると、大人になってよかったなぁ、としみじみ感ぜられるのでした。もし子どもだったら、努力の方向性もわからず、自分の才や向き不向きも見極められず、「やっぱり自分には無理なんだ」と諦めることしかできなかったかも。
私たちは大人なので、才能はどうにもなりませんが、努力することはできますし、軌道修正も自分でできる。大人万歳!
胸を張ってWHYを言える大人でありたい
最後に、大谷選手のスピーチには続きがあります。
憧れてしまったら超えられない。今日僕たちは、超えるために、トップになるために来た。今日1日だけは彼らへの憧れを捨てて、勝つことだけを考えていきましょう。さあいこう!
もー、すごいな、と。自分達はなぜここに立っているのか。憧れの人に会いにきたのではなく、超えるために、トップになるために来た、そう言い切る、大谷選手の言語化能力。
「決勝戦」という言葉はなんとなくフワフワしてる感じがしませんか?(私だけでしょうか…)
「強豪国アメリカと試合をして優勝を狙う」という事実だけの言葉は、なんだか人ごとのような気がしてしまいます。でも、「超えるために」「トップになるために来た」、これらは至ってシンプルながら、直感的に胸に響きます。おそらく、大谷選手がずっと自分の言葉として、身の内に持っていたものなのでしょう。
それは、目的が明確で、そのために正しい努力をしてきた自信に満ち溢れる言葉でした。
私もこんな風に、自分の努力に誇りを持ってWHYを言える大人でありたいものです。
健康なままでいたいから、運動する。主人といつまでも仲良くいたいから、ダイエットする。声が届く限りの人々を励ましたいから、自分の思考を磨く。これが、今の私の目的・WHYです。
思うに、目的と努力は天秤のような関係で、どちらかだけ重いと自分が苦しい。どちらも均衡がとれてはじめて、喜びを感じられるものだと思います(これを「自信」と呼ぶのでしょうか)。
胸を張ってWHYを言える大人は、目的をとことん突き詰めて、それに向かって努力をしているひと。そんな風に、私もなろう。
きっと、憧れを超えられる
正しく目標を設定して、正しく一直線に努力すればきっと「憧れ」に会える、そして、そのプロセスに自信が持てれば持てるほど、その「憧れ」を超える可能性が芽生えてくる。今回の試合を通して、侍ジャパンはそう私たちに教えてくれました。
そして私たち大人は幸いにも、自己決定権がある、裁量権がある。自分の目で見て軌道修正ができる。
ありきたりですが、私は「いつだって、人生で今が1番若い時」という言葉が好きで、だからいつもその時々の「憧れ」を胸に抱けるのです。
大人のみなさん、ぜひ「憧れ」を胸に抱いてみませんか。そして、また、ひたむきに努力をしてみませんか。
周りの人が「無駄」だと言っても、私はあなたの努力に精一杯の拍手を送りたい。願わくば一緒に、楽しく、努力を続けていけますように。